出先でとりあえず食事をとる必要に迫られて、どこに入ろうかと、地下街の店舗案内版を眺めました。
あまり時間もかけられないので手軽に、と思い、あるパスタのお店に入り、テーブルにつきました。
お昼には少し早い11時すぎで、店内は私とパートナーの二人だけ。
メニューを開きながら、二人とも何を食べようかというアンテナよりも、他のアンテナがあるものをキャッチ。
パートナー:「音楽、うるさくない?」
私:「うん。こんな音楽聴きながら、ご飯食べられない。」
そのお店は、名古屋ではあちこちにあり、対象としている年齢は20歳前後といった感じです。 だからいまどきのガンガン怒鳴るような歌い方をするミュージシャンの音楽を流しているのは仕方がないのでしょうか。
パートナーいわく、「お客の耳に入るというより、店員が自分が聴きたい曲をかけてるんじゃないの?」
私も、同感。
食事をするときにふさわしい音楽というものがあるはずです。
何もクラシックを流せといっているのではありません。 J-POPであっても、ゆったりとした和やかな曲はちゃんとあります。
聞いていて、胃がひっくり返るようなアップテンポの音楽を平気で流している無神経さに、我慢が出来ず、何も注文しないでそのお店をでました。
そして、隣のお寿司屋さんへ。 ここなら、まぁ流れてきてもせいぜい演歌だろうから、ガンガンの騒音よりはいいだろう。と話しながら席に着きました。(けっして演歌が好きという訳ではありませんが。)
思った通り、バラード調の曲がながれていてほっとし、熱いお茶をすすりながら注文したものが出てくるまで待ちました。
ところが、静かな曲が終わり、その後続けざまに3曲ほど、先ほどのパスタのお店と変わらないようなうるさ系の曲が・・・。
う~ん。 安易に有線を流しているっていう感じ。
かつてウィーンに滞在していたころ、カフェによく行きました。
音楽の街として、世界中から観光客が訪れる音楽の都、ウィーンのカフェには、どんな音楽が流れているのだろうと思いながら、初めて街のカフェに入った時に、音楽が全く流れていないのに拍子抜けしました。
カフェでは音楽は流さないの?とウィーンっ子に聞いたら、「ウィーンの人々は音楽を愛しています。でもだからこそ、人には押し付けないのです。」 と返ってきました。
そういわれると、ウィーンの街を走る地下鉄に乗っても、音楽どころが駅アナウンスさえも聞こえてきませんでした。
ウィーンでは、音・音楽が溢れていないからこそ、音楽を愛する人たちが育つのだと、その時に思いました。
当時、東京の山手線のホームでは、電車の発車の時にも音楽が流れ、その合間に電車の到着、行き先、乗換、そして発車のアナウンスが必要以上に大きなボリュームでひっきりなしに流れていました(今でもそうでしょうか?)。
そう思うと、東京の街の、名古屋でもそうですが、なんと音や音楽が溢れていることでしょう。
今日また、名古屋の中心地、栄を歩いていました。
信号待ちをしていると、歩道にたっている街路灯に取り付けられたスピーカーから、何を言っているのかさえも判別でいないほどの、男性のがなり声で歌う曲が流れてきて、私はまたか、とうんざりしました。
大売出しの商店街でも、パチンコ屋の店内でもないのに、このような音楽を流す、その意図は何なのか、私には理解できません。
この文句、河村市長に言えばいいの?
カフェを例にとれば、そこでどんな音楽を流すのか、というのは、その空間におけるすべてのもの、インテリア、テーブルやいす、飲み物、サービスする人の態度や服装などとともに、神経が使われるべきでしょう。 その神経がちゃんと使われているかどうかが、その国のカフェの文化の高さを表していると、ウィーンのカフェを訪れて私は思いました。
翻って日本の飲食店。 (一流店はほぼ問題がないことが多いので、ここでははずしておきましょう。)
普通の場面で人々が行くお店が、出すお料理だけでなく、食空間すべてにどんな配慮を見せるかで、日本の飲食店文化の質は推し量られる、ということを、まず従事する人たちがもっと認識することが望まれます。
先日のランチタイムといい、今日の町中の音楽と言い、やたらと音楽を流すようになった日本人は、かつては虫の音を聴き、めでていた耳を失ってしまったのでしょうか。
音楽の暴力。
そんな言葉が頭をよぎっていきました。